(a short story appeared in 2010-12-30)


すこしだけ失敗をした。
けっして致命傷ではなかったけれど。
人体の構造上、頭部からの出血は、実際以上に大量かつ派手に見えるのが、お約束。
こめかみを触った掌に、べったりと赤色がついて、ああひどいなと思った。
ひどくブザマ。



六本木に聳えるマンションの、九〇七号室、おなじみの合わせ鏡のあいだを通りぬけて、きみたちの居場所まで無事に辿り着けるのか、わずかに危惧してしまうから。
厳重に浄められた聖域に、血腥いヒトゴロシの存在は受容されずに、はじきだされてしまうのではないかしら、とかね。
まあ、仮にそうでもいいんだけどね。
そこに俺が許されないとしても、どうか、そのままでいてください。
きみたちだけは。



ばかね、と冴子に叱られ、彼女の奇蹟的な能力で傷を塞がれて、居間のソファで休んでいるうちに三十分ほど眠る。
すぐそばのミニキッチンで、幾度も幾度も湯を沸かしてはポットに注ぐ気配。
「何の演習ですか」
片眼をあけて訊いてみる。
「起きたの?」
「んんー。まだ微妙ーに、頭の半分がボヤッとしますわ」
「じゃあ寝てなさいよ、あたしは傷は塞ぐけど貧血は治さないんだから」
「きみは何をしてるの」
「何をって、お茶をいれてるのよ。忍様と、あたしと、あなたの」
「何十人分のお茶をいれておるのだ」
「まだせいぜい五十人程度よ、誤差の範囲内よっ」
「ああ、はい、うん、範囲内。そうかもしれん」
「おとなしく寝なさい」
「はい」
命令されると嬉しくなる。
孤独が嫌いで、確かなものに従属したがる、この悪癖。なかなか一筋縄にはいかんね。



もう二十分眠って、目を覚ます。居間の大窓は、いちめんに落日の朱色。
太陽を惜しむみたいに、この部屋の主は、窓際に座って本のページを繰っている。サイドテーブルには、カップアンドソーサー。カモミールの香り。
「それは二十二杯目あたり?」
オハヨウと言う時間帯でもないので、そう質問する。
「六杯目までは数えたが、その先は忘れてしまったな」
「無茶はやめなさい。忍さん。あとは俺が飲むからやめなさい」
「これも愛する妹の涙だと思えば、このお茶は、馬の骨には渡せないな」
「あなたのシスコンは知ってますから、お茶を相手に過剰な意味づけをするのはやめなさい」
「諒。すこしでも僕の身を大切に思うなら、冴子の扱いには気をつけてくれないと困るな」
「もーのーすーごーく、わかってますよ、そんなことは!」
「そうかな?」
小首をかしげて、愉快そうに忍がつぶやいた。


《The mirrors》