「貴兄には、ずいぶん気重な報告のようだが……意外だな」
己の襟元に中指の関節をひっかけてネクタイの結び目をひきおろしつつ、武人が言った。
ほどいたネクタイの両端を指先で捉え、均等な力で釣り合わせる。慎重に、完全なる均衡の一点をはかるように。
そして形式張った口調をやわらげ、独白まじりのつぶやきに切りかえた。
「どこの家にも、子供ができるのは、あたりまえのことだと俺は思っていた。いついかなる術者を産みかねない家系であるとしても、われらは新たな生命に向きあっていくしかない。旧来の一族の価値観が通用しなくなり、処し方がむずかしいのはたしかだが……」
斎伽の一族においては、子の誕生は、ありふれた慶事で済まされない。特殊な能力者が生まれ来る可能性を鑑みて、一族内に情報を周知するのが常だ。いま、情報統括の最高責任者にあたる人物は、むろん七瀬家の家長、斎伽忍である。
処し方がむずかしい、と武人が感じるのは、斎伽忍が一族の実権を握ったために、過去の慣例が効力をなくしているからだ。
今後、術者ないし道者が生まれたとき、かれらを旧態依然の規範で縛り、組織として管理してゆく必然性は、あるのか。
崎谷亮介たちの存在によって、一族や純血というものの意味は瓦解しつつある。
「いまの忍様は、どんな子であれ『自由にさせよ』と仰せになる気がするのだ、俺は」
「当事者意識が薄すぎるのではないか。他ならぬ不破家に持ちあがった話なればこそ、貴公をも同伴しているのだがな」
「当家の縁者といえど、同居もしていない叔母の妊娠だ。正直、ぴんとこない」
「遅かれ早かれ、ひとごとではなくなる」
咸月は上着の内ポケットから煙草をとりだし、パッケージの底を親指ではじく。
跳ねあがった一本を唇の端に挟むと、真鍮のジッポで火を灯した。
めずらしいものを目撃した表情で、武人がまばたきをした。生来の感覚の鋭さを自負する咸月陣は、通常、感覚を鈍らせる喫煙行為を努めて避けている。そんな咸月でも羽目をはずしたくなる気分が、この話題からは発生するらしかった。
「予定があるのか」
「予定?」
「その……具体的な……子作りの。……ちがうな、まずは結婚か」
言葉の選択を誤った武人を、あからさまに咸月が睨んだ。
「順序を重んじろ。俺は『できちゃった結婚』をするタイプではない」
「よく承知している」
「俺は、粛々と人生を進めようとしているだけだ」
LOGOS TWO
(既視感。
それは倦怠にさえ似ている)
彼と差し向かいに対峙する里見十九郎は、己のそんな思いつきを、興味深く吟味する。
眩暈がするほどの奢侈驕慢。
こんな光景に疑問なく順応し、当然の恩恵として享受する者の、罪業を知れ。
安寧は、幻想だ。
わずかな指の力でたやすく握りつぶせる、精巧なこしらえの抜け殻のように。
「勘のいい咸月殿のことですから、ここに俺という邪魔者の気配を察知されたのでは」
十九郎は形勢不利のチェス盤に見切りをつけ、まったく勝機には結びつかぬ位置へと、ビショップの駒を移す。
防護の盾を失って野晒しになったキングを、掌で示した。
「どうぞ。あなたの勝ちです」
「勝ちの押し売りは、ひどいな」
「順当な結果ですよ。俺には、これ以上の戦いようがない」
「多少なりと、僕を荷厄介に思っているだろう?」
斎伽忍が言う。
十九郎は意表をつかれ、率直に笑いだしてしまう。
「いまさら俺が、ですか? むしろ俺の科白です。チェスの相手に俺を選んで、後悔されているのではと」
「いまさら僕が?」
「誤解を憚らずに申しあげれば」
静かに十九郎が言う。
「あなたに『食べていただける』という趣旨の幸福も、世にはあるのだと俺は思います」
「王者に毒を盛る者の動機も、つきつめてみれば、その相似形かもしれないな。……美味しいよ、ありがとう
ルールに則った遊戯を楽しむように、忍が優美に笑んで答えた。
冴子がひとり、この湿度の高めな会話に頭痛をおぼえたらしき表情をつくる。
自由が丘の里見家に一歩踏み入ったとたんに希沙良が空腹を訴えるのも、いつもの話だ。
訴えて、むげに却下されるためしがないのだから、習慣化は当然の帰結だ。
「もしかして俺『パブロフの犬』やってんのか?」
玄関先に現れたとたんに、やや神妙な顔つきで希沙良が言う。
(いまさら?)
希沙良に対してその問いかけを再現するのは、やめておく。
身も蓋もないうえに、ひとつおぼえでは芸がない。
「そんな疑惑に希沙良が今日突然とりつかれたわけを聞こうか」
サラダにあわせるバルサミコ酢のドレッシングを調合しながら、十九郎は理由を尋ねる。
夏江は仕事で、夕食の時間に間にあわないと言っていた。ゆえに従弟とその胃袋をもてなす仕事は、すべて一任されている。
「ここ来ると異様に腹が減んだよ。絶対。必ず」
「あまり正確な表現じゃないな。俺が『鈴だけ鳴らして餌を与えない』ときに初めて、パブロフの犬のたとえが適用される」
LOGOS THREE
「偶然とか言うなよ」
亮介が厳しい口調になると、しらじらしい建前を並べるのはやめて、諒は黙る。
喋るかわりに、片方の掌で亮介の頭をぐしゃぐしゃとかきまわした。
しかたないなと亮介は思う。
諒が素直でないのは、しかたない。
「諒。心配してくれてありがとう」
「それは神原さんに言えばよいことですので」
「亜衣ちゃんにも言うけど、おまえだって堂々と聞けよ」
「俺が亮介のコンディションを把握しておかねばならんのは、業務上の義務であって、そのぶんの報酬も忍から受けとってますから、神原さんとはまったく立ち位置が別でしょ」
「いいよ、どんぶり勘定の、公私混同で。おまえ面倒くさい」
「面倒くさいって、亮介さんあなた、そんなズバッとしたクールな切り口で」
「俺の力も、そのうち消えるのかな。そうなったとき、どんなふうに自分で思うのかな。自分のことだと、なんだか、わからないな」
亮介のつぶやきに、諒が一瞬、動きを止める。
「話の流れが唐突ですよ?」
LOGOS FOUR
名を呼ぶ声がした。
雪は、はっと瞠目する。己は、いずこに置き去られていたのか。
慄然と、胸の中枢を吹き抜ける冷気の正体を、感受する。
空者沙良耶の気配が……見いだせぬ。
(ああ、また)
またしても、と悟り、雪は獣のごとく咆哮する。
(なくしてしまった)
空者の魂は、輪廻転生によって継がれていく。その宿命があるかぎり、主君の死をくりかえし迎えるのも、〈使〉の宿命だ。
しかし喪失の重みに、馴れはしない。
荒れ果てた大地の岩肌に、雪は慟哭とともに、幾度も幾度も拳を打ち当てる。
さりとて生身の人間とちがい、神力によって形作られたまやかしの肉体は、そんなことでは壊れはしないのだ。ひたぶるに押し寄せるのは、久遠の悔恨と懊悩。筆舌に尽くしがたき孤独。
魂ばかりが、滅茶苦茶に千切れてしまいそうだ。
「雪よ。すまぬ。……沙良耶は、転生の輪に還った」
雪の傍らに佇み、彼が言った。
白狼王。
その身に纏う美しい戦装束にも、味方勢の血飛沫が滲みている。
神々のなかでも理知にすぐれ、静謐な物腰を崩さぬ空者白狼王が、今生に宿りついている『器』は、いまだ年若き少年であった。
それゆえか、彼の心の波動は、常よりも隠匿されきらずに雪に伝わってきた。
雪と同様に、彼も泣きたがっていた。かなうならば、大声で。
眉宇に深甚なかなしみを刻み、険しき表情を頬の輪郭に映えさせ、少年は告げる。
「すまぬ。わたしが、おまえを生かした。沙良耶を失えばおまえが嘆くと、わたしとて知っていたのに」
「……あなたさまは、御自身が、お寂しかったのでございましょう」
雪は、呪詛に似たつぶやきを吐きだす。
「そうだ」
ためらわず、白狼王が首肯した。
「沙良耶のためでも、おまえのためでもない。むざと沙良耶を死なせたうえ、おまえまでも眠らせては、わたしが自らを赦せぬのだ」
「わたくしには酷薄な仕打ちにございます」
「知っている」
...and LOGOS ZERO
ハイスクール・オーラバスター外伝集
"THE PROPHETS"
若木未生
A5サイズ/52ページ
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